北朝 (日本) (Northern Court (Japan))
北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代 (日本)に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士が支持した持明院統の朝廷である。
同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝 (日本)(吉野朝廷)に対比する。
概要
鎌倉幕府滅亡後に京都に成立した後醍醐天皇の建武政権から離反した足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、建武3年(1336年)6月に京都を確保すると上皇を奉じて入京する。
尊氏は武家政権の構築に着手するが、後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗しており、8月の豊仁親王(光明天皇)践祚は三種の神器を欠いたままで行われた。
同年11月には講和が成立し、後醍醐は神器を足利方に渡して譲位し、光明天皇が即位。
同年末、北朝は『建武式目』を発布して武家政権の成立を宣言するが、後醍醐は京都を脱出して吉野に逃れ、北朝方に渡した神器は贋物であると宣言し、吉野朝廷を成立させて対抗する。
足利政権内部の紛争から観応の擾乱が起こると、正平6年(1351)に北朝は南朝との和睦を行い、正平一統が成立した。
年号は統一され神器も南朝方に返されて北朝はいったん解体される。
翌正平7年、南朝は京都と鎌倉への侵攻と光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王の拉致を行い、一統は破棄される。
京都を奪還した足利義詮は北朝再建を試みるものの上皇の不在により治天を定めることができず、三種の神器も南朝方に渡っていた。
足利政権では古代の継体天皇の先例を持ち出し、光厳生母の広義門院を治天とし、8月に三種の神器のないまま光厳皇子の弥仁親王の践祚を行い、後光厳天皇として即位させる。
三上皇はその後、北朝へ返還された。
将軍足利義満、管領細川頼之時代には武家執奏による朝廷への口入がみられ、応安3年(1370年)に後光厳天皇が自らの皇子緒仁親王への譲位意思を表すると、崇光上皇は正嫡である実子栄仁親王の即位が妥当であると主張し、皇位継承問題が起こる。
朝廷は幕府の判断をもとめ、緒仁親王の即位が実現した(後円融天皇)。
明徳3年(1392年)、南朝の後亀山天皇との和睦が成立し、神器は返還され南北朝合体が実現。
1911年(明治44年)、いわゆる南北朝正閏論を収拾するため、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされた。
これにより、北朝の6代6人の天皇のうち後小松天皇を除く5代5人は、今日に至る125代の歴代天皇に含まれないこととなった。